代表理事 野々川 尚が農薬を使わない栽培を始めたきっかけと

昭和30年 東京生まれ 東京で育った。

昭和56年 警察官を経て、自衛官を務めたが退職。

昭和57年 妻の実家は北海道で農家をしていた。北海道に移住し妻のご両親の元農家のお手伝いをする事になった。

昭和58年 農家のお手伝いをしていて気になる事があった。『どうして病気になってもいない作物に農薬をかけのだろう?』納得がいかなかった。ご両親に問うも『病気になると困るから農薬をかける』と答えるのみだった。私は納得がいかなかった。『人間の子どもに同じ事をしないだろう?』と思った。

農業の素人だった私には農薬の使い方が全く理解できなかった。
自分の思い通りに、好き勝手にやりたくなってきた。考えに考えた末、決断をくだした。

奥さんのご両親が持っておられる4haの農地を1haだけ自分の好きにさせてくれと、3年分の畑の収益を現金一括前払いでご両親に支払い、畑を借りうけ自由に作物を作れるようになった。意気揚々と農薬を使わない栽培に取組んだものの結果は散々たるもので、作物は病気だらけになり、何一つ収穫できなかった。

ご両親や周囲の農家からは鼻で笑われた。妻は励ましてくれた。北海道は冬の間は積雪のため約5カ月間農業ができない。その間、私は独学で作物が病気になる原因を調べる事にした。来る日も来る日も朝から晩まで勉強にあけくれた。

 

昭和59年 2年目 周囲に笑われながらも独学で学んだことを実践する。が、結果は去年と同じだった。最初は応援してくれていた妻も時折不安な表情をみせるようになった。ご両親の風当たりは日増しに強くなっていった。2年連続 売上0円 収入は0円。しかし私はまったく意に介さず、また冬の間独学で勉強、研究を行った。

昭和60年 3年目 ようやく作物が取れ始めるも売物になるような物はできなかった。
この年も売上げは0円だった。3年間無収入となった。
さすがに妻と、妻のご両親からも 『もう辞めろ』と言われた。

ただこの年たしかな手応えを感じていた私は『あと1年だけやらせてくれ それでダメだったらスッパリ諦める』と約束をし、また冬の間 独学で勉強に明け暮れた。

昭和61年 4年目にして ついに花開く 農薬を使わないで栽培で満足のいく作物ができた。立派な大根が3000本とれた。ものすごく甘みがあり美味しかった。『これは高値を売れる』そう思い意気揚々と軽トラに大根3000本を積込み市場へ向かった。市場で大根の入った箱をひとつひとつ丁寧に下ろし値がつくのを待った。
30分後 私は唖然とした。

ついた値は 1本1円 3000本で3000円だった。

頭が真っ白になった。
農協と取引きがない農家は無下にされるという暗黙の決まりを私は知らなかった。
真っ白になった頭で大根の箱を軽トラに戻し 呆然としながら車を走らせた。

札幌ビール園の前を通った時に人だかりが見えた。
次の瞬間 札幌ビール園に大根満載の軽トラで突っ込んでいった。
無意識だった。警備員がすっ飛んできて車を静止された。

警備員の方に事情を話すと親身に聞いてくれた。
『ちょっと待ってなさい』と、しばらくしてビール園の責任者の方を連れてきてくれた。
責任者の方また同じ事を説明した。責任者の方も優しかった。
『そこで売って良いよ』と車1台分のスペースを貸してくれた。
早速、ダンボールに 『無農薬  大根1本 100円』 と書いて大根を並べた。

すべて売れた。

あっという間だった。
沖縄からの団体客らが箱単位で買ってくれた。
責任者の方と警備員の方にお礼を言いに行くと『また来年もおいで』と言ってくれた。
私は安堵の面持ちで帰路についた。
すべての苦労はこの瞬間に報われた。

 

ABOUTこの記事をかいた人

1967年(昭和42)長崎県佐世保市生まれ。福岡&北海道在住。
実業家、投資家。縁の下の力持ち
数年前に急性前骨髄救性白血病を患うも完全復活。 健康に目覚め現在は野々川尚氏と共にオーガニック農業を日本中に普及させる活動を行なっている。